Last-Modified: 2010/11/30
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秋の京都:11月26日

2009年11月26日:
□-AM07:50-□
大福タクシーにて、福山駅へ ==> のぞみ ==> 京都駅
(09:48)

市バス[206]北大路バスターミナル行き:≒39分 => 大徳寺で下車 \220 (1dayフリー\500を購入)
バス停から大徳寺へ行く途中、大徳寺納豆を買いました
大徳寺に到着 総門(11:01) 大徳寺山内図 山門(11:04)

千利休が山門楼上に自らの像を置いたがために秀吉から切腹を命じられたことでも知られる「山門」
□-大徳寺・高桐院(こうとういん)(11:17)


細川家の墓の向いに、「ガラシャの墓」がありました
タクシーの運転手さん?か、2人の婦人たちに「ガラシャの墓は・・・」と説明をされていました
さっそく、夜、ホテルで検索を
ガラシャは、明智光秀の三女で名は玉(玉姫)。
大変美しい娘であった玉は、15歳のときに父の主君、織田信長のすすめで、細川忠興に嫁ぎます。
その後、父・光秀が、主君・織田信長を本能寺の変で討って自滅したため、「逆臣の娘」となります。
夫・忠興は最愛の玉と離縁できず、一時丹後(現在の京都府京丹後市)に幽閉します。
この時、玉は2人目の子を宿していました。
信長の死後、秀吉のとりなしもあって、玉は細川家の大坂屋敷に戻されます。
流転の人生の中、玉はカトリックの教えを聞き、心惹かれていきます。
玉は大坂に滞在していた神父のはからいで密かに洗礼を受け、ガラシャ(ラテン語で恩寵・神の恵みの意味)という
洗礼名を受けます
後に秀吉は宣教師追放令を出し、キリスト教徒を長崎に追放、大名は、(許可の無い)キリスト教信仰を禁じられます。
忠興は家中の侍女らがキリスト教に改宗したことを知って激怒、侍女たちの鼻を削ぎ、追放。
この時、ガラシャは発覚を免れます。
ですが、拠り所を失ったガラシャは「夫と離縁したい」と宣教師に打ち明けたといいます。
関ヶ原の戦い直前、大坂の細川屋敷にいたガラシャを、西軍の石田三成は人質に取ろうとしますが、ガラシャはそれを拒絶。
その翌日、三成が実力行使に出ると、ガラシャは家老の小笠原少斎に胸を貫かせて死去。
(カトリックで自殺は大罪であるため)享年38。
□-今宮神社
□-あぶり餅
今宮神社から見て左側が「かざりや」右側が「一和」(いちわ)
かざりやは、創業600年、一和は、1000年
□-昼は、大徳寺裏のご飯屋さん「五百磐」(いにわ)で昼食を取りました
「ふわふわ卵のカレー雑炊」というのがあったので注文しましたが・・・わたしには、辛かった!
□-大徳寺・芳春院(ほうしゅんいん)
こちらもガイドが居られた。この時に初めて、「まつ」の寺だと知った・・・・
前田利家の正室。名はまつ。法名は芳春院殿花巖宗富大禅宗定尼。女性でありながら学問や武芸に通じた女性であった。
□-大徳寺・黄梅院(おうばいいん)
市バス => 北山駅へ
□--北山・イノブン
ここでは、「京都歩き地図」なるものを買う予定だったんですが、「品切れ」
「お取り寄せできますが・・」と店員の方に言われましたが・・・"広島からなので・・"と
本日、最後の予定は、「しちりん・なり多」での夕食!です
「おまかせ料理」を予約していましたが・・・・
すべてに満足の料理でした
食事中、女将から「以前、あのテーブルに座って・・・」と、覚えておられたようで驚きです。
年に1度の3回目だったのに、ちゃんと覚えて頂いて、「また来年も来ます!」とお別れを
1日目、終了です
今年は、1ヶ所にゆっくりと滞在し、そしていろんな意味で考えることのできた1日目でした
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